パッケージ画像 GAMERS EDEN的ゲームレビュー File004.
KOUDELKA(クーデルカ)

ジャンル:RPG
開発:サクノス 発売:SNK
SLPS 02460〜3

1999年12月16日発売
定価:6800円

画像への直接リンクは禁止させていただきます。


検索などで直接いらした方、当サイトは「GAMERS EDEN」です。
プロデューサー/ディレクター
/脚本/音楽
 菊田 裕樹 キャラクターデザイン  岩原 裕二
アートディレクター  イタクラ マツゾウ     プログラムディレクター  ヨシエダ サトル
イベントプランナー  シンボ ノリコ
 クロイワ ヨシヒロ
イベントプログラマー  イイダ マコト
ムービーディレクター  オバタ イズミ キャラクターモデリング  渡辺 伸次
バトルプランナー  イシカワ タカアキ
 サカモト ユウコ
サウンドプログラマー  鈴木 秀典

「クーデルカ」が世に出るまでの経緯
「クーデルカ」は1999年にプレイステーションソフトとして発売された作品です。ディレクションを務めたのは菊田裕樹氏。そう、熱狂的な固定ファンを持つ、もとスクウェアのコンポーザー(作曲家)だった、「あの」菊田氏ですね。氏がスクウェアを離れて「クーデルカ」を作ることになった経緯、これを知ることは「クーデルカ」という作品を知ることでもあります。しっかり頭に叩き込んで下さいね。最近では「クーデルカ」を紹介していたページも「Not Found」だらけになってきました。古めのゲームですしヒット作とも言い難いので無理もないのですが、ならば筆者が徹底的に語らせていただきますってば!

菊田氏はスクウェア在籍時に「ロマンシングサガ」の効果音作成からゲームサウンドクリエイターとしてのキャリアをスタートさせています。それ以前はアニメ関係の仕事に就いたり、マンガを「描いて」もいたことはコアなファンであればご存知でしょう。元来、多才な人なのです。氏は「ロマサガ」の効果音を担当した後、「聖剣伝説2」、同「3」や「双界儀」で作曲を担当。スクウェアのコンポーザーとして固定ファンを獲得していきましたが、当時から顕著だったスクウェアの完全分業体制に疑問を感じて同社を退社。それぞれが作ったものを持ち寄ってドッキングさせてからユーザーに「どうぞ」と差し出す、全体の統一感がないゲームは「イヤだった」と語る菊田氏が抱いていた、「最初にしっかりとした設計図を書くところから始めたかった」との思い。さらに、「大きな会社は大ヒットしないと"売れなかった"のと同じに扱われる」「手堅く20万本売っても次を作らせてもらえない」というように、大作主義に対して感じた恐怖。そこから氏は「外に出て新しい可能性を探すのもいい」「作品にもっと責任を持って関わりたい」と考え、自ら制作会社を興す決意を固めたのです。そうしてできたのが「サクノス」でした。スクウェアにおいて「FF」チーム以外がいかに不当な扱いを受けていたかがもろわかりな、切ないエピソードですね菊サン。

しかし、独立したはいいものの、実績はあっても現実的に資金がない。そこでスポンサーを探していたところ、SNKを紹介されたのでした。SNKサイドは「金は出すけど口は出さない」と言ってくれたそうで、菊田氏が設立した「サクノス」はSNKのバックアップのもと、自由な環境で「クーデルカ」の制作にあたることができました。SNKはどれだけバブリーだったのでしょう?それはそれとして、サクノスのスタッフは元スクウェアの人間5〜6名を中核とし、菊田氏側から集めた人間・そして集まってきた人間を合わせて総勢40名ほど。その中で菊田氏が「クーデルカ」の開発に際して取った立場は「ディレクター」というポジションでした。これまでサウンドスタッフとしてゲーム開発に携わってきた氏ですが、そもそもスクウェアの分業体制への疑問から独立したこと、そして「最初にしっかりとした設計図を用意する」という志から、自ら設計図を書く立場となったわけです。他に誰か良い設計図を書ける人がいれば任せたが、残念ながらいなかった、自分が最も適任だった、と菊田氏はマスターアップ直後に語っています。独立して気の合う仲間を集めたところで、あまり
有能な人はいなかったと言いたげです。その発言を受けてスタッフロールをじっくり観察するなんてことは控えるのが大人の対応ってもんです。

当時スクウェアは最もノリにノッていた制作会社でした。ある意味では現在もそうかもしれませんが、当時は完全な新規のタイトルでもミリオンを突破する勢いのあった、真の意味で業界の中心的存在でした。そこで実績を積んだクリエイターが独立したとなれば、ゲーム関連メディアが放っておくはずもありません。ゲーム雑誌は早くから「クーデルカ」を取り上げ、もとスクウェア組ならではの最新技術、美麗CGといったあたりをクローズアップ。「ファミ通」などは浜村編集長(当時)みずから菊田氏のインタビューに臨むなど、できたばかりのゲーム会社の新規タイトルらしからぬ大物の扱いを受けていました。それも菊田氏の実績と「元スクウェア」の威光あってのことでしょう。ファミ通が浜村氏を出すというのはよほどのことです。

「しっかりとした設計図を用意してゲームを作りたい」。その言葉通り、1997年8月にスクウェアを退社してからサクノスを設立、そして1998年の2月までの間に「クーデルカ」のシナリオの箱書きとゲームの進行手順、キャラクターの心理設計も完全なものにしていた菊田氏。そこから様々なスタッフの手を経て世に出されていくことになるのです。そこから先のことは、この時点の菊田氏にしてみれば完全に想定外だったのでしょうが。
ビジュアル面でのインパクト
各メディアが「クーデルカ」を紹介する際に中心に配置したのが、ヒロインであるクーデルカ・イアサントのムービーモデル、そしてゲームの舞台となるバックグラウンドCGでした。なるほどさすが元スクウェア組、CGは最先端だねと誰もが納得するビジュアルは大作感じゅうぶんで、作品に対する期待も高まっていきます。ここまでリアル指向かつ美麗なCGは、当時なかなか見られないものでした。
このグラフィックに惹き込まれた人も多い。
舞台は1898年のウェールズ。ウェールズとはイングランドの東地方を指し、多くの場合ひとことで「イングランド」と括られがちですが、そもそもイングランドはグレートブリテンにある4つの国(イギリス・スコットランド・アイルランド・ウェールズ)を統合した国家。アングロサクソンの国であるイングランドと違ってウェールズは、中央ヨーロッパから移住してきたケルト人の国です。そこを舞台に選ぶことで、他のゲームではあまり見られない独特の空気感や色味を持ち込む狙いがあったのでしょう。実際現地にロケハンをし、資料の収集やテクスチャ用の写真撮影なども行ったとのこと。ビジュアルに対する意気込みは制作初期から全開だったようです。19世紀末のイギリスを選んだのも大きな動機は「絵的に面白いから(菊田氏・談)」。もちろんそれだけではなく、「科学と怪しいものが出会う混沌とした時代」「その双方を描ける」という、世界観の面白さ、柔軟さも理由になっているはずです。

舞台の選定と同時に進められた、キャラクターの造形。1998年3月頃、キャラクターデザインの岩原裕二氏を始めとするデザイナー陣が最初のクーデルカをスケッチしています(複数デザイナーによる競作コンペ形式を採っていました)。岩原氏はその後クーデルカだけで数十、全部のキャラクターで百枚以上のスケッチを残したと言われています。しかし多くは技術的な制限に起因する衣装の変更に伴うもので、キャラクターの基本的な部分についてはかなり早い段階で固まっていたようです。その後岩原氏はゲームに先駆けて「クーデルカ」をコミカライズしています。さて、岩原氏のスケッチをもとに、ムービーで使用するポリゴンモデルが作られます。これを担当したのは、元コンパイルの渡辺伸次氏率いるD3D。D3Dは菊田氏の呼びかけに応じて東京へと移ってきた渡辺氏が、仲間とともに「クーデルカ」の制作にあたって設立したCGスタジオでした。当時は実績のなかった彼らですが、そのプロモーションビデオから並々ならぬ情熱を感じた菊田氏は、「彼らといっしょに新しいチャレンジをしよう」と声をかけたそうです。後に菊田氏は「アイディアはあるけど実績のない人がいっぱいいる。新しい可能性があったら試してみるべきなんですよ」と語っていますが、それはまさにこうした人々との出会いを振り返っての発言でしょう。逆に見れば、この頃はまだ「余裕」というものがあったのかもしれません。開発末期はきっと「余裕カマすんじゃなかった……」と思ったのでは。

現実的には、「クーデルカ」のキャラクターモデリングは難航しました。「クーデルカ」で求められたレベルの高いキャラクターモデルはD3D的に初めてということもあって、試行錯誤が続いたとのこと。時期的には最先端の「FFVIII」ですらやっとすべてのムービーが8頭身になった頃。スクウェア様の「FF」でも試行錯誤の連続だったのですから、D3Dが苦戦するのは必然というもの。「クーデルカ」が必要としたCGのレベルは、まさに「FF並みかそれ以上」というものだったのです。リテイクが相次ぎ、最終的には菊田氏自らがスタッフの後ろに張り付き、細かな指示を出しながらキャラクターモデルを作っていったといいます。多く見積もっても1年半ほどの制作期間のうち、半年間はこのキャラクターモデリングに費やしたことになります。もちろん菊田氏はその間、他のこともやらなければならなかったのです。音楽も作らなければならないし、イベントやBG、バトルも監修しなければならない。しかし、実際にこの短期間ですべてに手が回るのでしょうか?菊田氏がどれほど多才な人であっても、限られた時間でできることはそれほど多くはないはず。場合によってはどこかのセクションは担当者に任せっきり……というような状況もあり得たでしょう。例えば……戦いとか、
バトルとか、戦闘とか。
FFにひけをとらない最先端美麗ムービー
美麗ムービーと言えば、本家スクウェアのお家芸でした。他のメーカーがどんなに頑張っても、スクウェアが放つ新作で見られるムービーは常にアタマひとつ突出したクオリティを誇っていました。そもそもムービーというものを、一般層にまでわかりやすく、具体的に提示したのが同社の「FF」シリーズだったのですから、ほとんど専売特許です。他のメーカーはそれで気が付いたのです、「ムービーはウリになる」「ムービーに金をかけてもいいんだ」と。最低でもオープニングぐらいは豪華なムービーを入れなければ認められない、そんな風潮が確かにありました。

難航したモデリングもどうにか完成し、「クーデルカ」も本格的なムービーの制作に着手します。試行錯誤の甲斐あって、できあがったモデルは「FF」にも劣らないクオリティ。これをいかに説得力のあるムービーとして仕上げるか、ということで、採用した手法はモーションキャプチャー。今でこそどこでもやっている技術ですが、当時はまだまだ手付けモーションの時代。「FFVIII」やナムコの「鉄拳」といった大作がやっとモーションキャプチャーを取り入れたことで話題になっていた頃でした。制作時期的には「クーデルカ」もほぼ同じタイミングでこの最新技術を投入したことになります。しかも、まだポピュラーではなかった複数人数によるキャプチャリングを、さらに音声(セリフ)も同時収録しながら、です。全世界的に見ても、当時は前例のないことだったはずです。もちろん国内ではムリ、海外でどうにかそれを可能にできそうな技術屋さんを見つけるも、彼らもこんな特殊なキャプチャーは初体験。当然技術的なトラブルが何度も発生したようですが、そこはクーデルカ役のボイスとモーションを担当したVivianna Batemanに代表される、役者のプロ根性に救われてきたと菊田氏は述懐しています。彼らは10分を超える長尺のシーンでも演技やセリフを完全に頭に入れて収録に臨んだそうです。

完成したムービーは、間違いなく当時最先端の出来と言っても過言ではないでしょう。一部ユーザーやライターからは「粒子が粗い」などと酷評されていますが、お前らの目は節穴か、と言いたくなるのは筆者だけですか?同時期にリリースされていた他のゲームのムービーの方が、よっぽど荒いじゃありませんか。「FFVIII」や「バイオハザード3」のムービーなんて、今になって見るとノイズだらけで見られたもんじゃありません。小手先の誤魔化しである圧縮によって生じる目障りなブロックノイズ、これが「クーデルカ」にはほとんど見られません。そのためムービーの容量が肥大化し、CD-ROM4枚組というボリュームのわりにムービーの尺自体は短い、ということになっているものの、MP3だって音質を上げれば容量が増えます。「4枚組なのにムービーが短い」と言い放つレビュアーは、そのあたりをまったく理解できていないとしか思えません。ん?もしかして14インチの小さなテレビでしかゲームをやっていないのでしょうか?それならば違いがわからなくても仕方ないですね(笑)。モーションキャプチャーは当時なりのレベルではあるものの、ボイスも乗っていてしかもリップシンクしている、そんなゲームが当時どれだけあったか?ということをいまいちど考えてみて下さい。

「超」の付く美麗ムービー。

↑ブロックノイズのないCGの質は、スクウェア・ナムコ・カプコンといった大御所より格上の出来。

もちろんムービーの質が高いということ自体は、ゲーム全体の評価には直結しません。「クーデルカ」のムービーのみを取り出して評価すれば間違いなく当時最高峰の出来ではありますが、それによる弊害ももちろん生じています。そしてそれがゲーム全体の評価を落としていることも……。
ビジュアルのみを意識しすぎた?ゲームとしての破綻
ビジュアル面にこだわり、それにそうとう時間を割いたことは、ここまで読み進めた方には伝わったことでしょう。が、それがゲーム全体にとっては悪い方向へと作用してしまったのです。ひとつはボリューム対内容のギャップ。CD-ROM4枚組というボリュームは、プレステのRPGとしては当時ポピュラーになりつつありましたが、それでいてプレイ時間が(個人差はあっても)10〜15時間程度というのはいかがなものでしょう?実はここに「最先端・超美麗ムービー」が影響してしまっているのです。前述の通り、キレイだということは容量が大きくなるということ。さらに「クーデルカ」のイベントはフルボイスです。当然、これも容量を喰う要素であるため、従来のプレステのゲームでは敬遠されてきたものでした。菊田氏はユーザーの間では、「視覚効果と音響効果の融合」について特別にこだわりのあるクリエイターとして有名です。だからこそボイスは欠かせない要素であり、音楽・効果音・ボイスが一体となった音響はなくてはならないものであったのでしょう。しかし、そういったものはゲームとしては「装飾」であると言い切る人々もいます。「ムービー不要派」も少なくはありません。純粋にRPGを楽しみたい人たちから、「クーデルカ」が酷評されるのに時間はかかりませんでした。4枚もCD-ROMがあるのに、ゲーム本筋のこの「薄っぺらさ」はどうしたものか、という評価。RPGを好んでプレイする人であれば、このプレイ時間が異例の短さであることが理解できるでしょう。

ビジュアルを意識するあまり、もうひとつ疎かにしてしまったことが本作にはあります。いわゆる「ユーザビリティ」、即ち「親切さ」です。「画面の見易さ」と言い換えてもいいでしょう。徹底的に描き込まれた背景は情報量こそ多いものの、しかしそれはただの背景でしかありません。どんなに細かくても、ゲーム的には意味がないのです。逆に「意味ありげに見える」ことから、何もない場所を必死に調べてしまったプレイヤーも少なくないでしょう。そんな緻密な背景の中に、ゲームをクリアするのに必要な重要アイテムが無造作に置かれていたら……。実際に本作ではそういったケースがあるのです。数ドットのアイテムが、スポットを当てられることもなく背景の中に放り出されていたりします。マップの出入り口も同様で、どこに行けばいいのかわかりにくい場所もチラホラ。背景を緻密にするなとは言いませんが、それならそれで重要なオブジェクトはさりげなく光らせるなどの対処が必要というもの。本作では一部を除き、そういった気の利いた処置は採られていないのです。これもビジュアル優先で生じた弊害と言えましょう。意図的に配置された謎解きよりも、出口やアイテム探しがはるかに難しいってどうなの?

ユーザビリティという点では、固定物に対する接触判定にも難がありました。入りたいドアに入れない、昇りたい階段に昇れないといったことで生じるイライラは、きっと多くのプレイヤーが味わったはずです。もしかしてここは昇れない階段なのか?と勘違いして来た道を引き返し、それでもやっぱり別のルートを見つけられず階段のところまで戻って来た時、ちょっとした角度でスルッと昇れた、なんていうのは最大のストレスであり、コントローラーを力の限り放り投げたくなります。また、親切のつもりなのか特定のマップでは画面左下に地名が表示されますが、プレイヤーが何らかのボタン入力(十字キーではダメ)をするまでこの表示が消えず、地名が表示されている間は移動できません。戦闘の発生以外で「キャラクターが移動できなくなる」というストレスを生じさせており、せめて「地名表示中も移動は可能、そのうち一定時間経過で地名表示が消える」といった仕様にしてほしかったところ。アイテムを拾った際にアイテム名が表示される際にも同様のことが起こりますが、テストプレイヤーから不満は出なかったのでしょうか?何のためのテストなんでしょう。
最大の汚点である戦闘
プレイ時間が短かろうが、ムービーだらけで本筋のボリュームが薄っぺらだろーが、RPGのキモは戦闘です。戦闘が楽しければ、放っておいてもユーザーは勝手に何時間でも遊び続けてくれます。しかし、「クーデルカ」で致命的だったのは、RPGでありながらこの戦闘が絶対的に不出来だったことでしょう。RPGを謳いながら、マス目の概念がある「タクティクス的」シミュレーションバトルとはこれいかに。RPGのつもりでプレイしたユーザーから叩かれるのも無理はありません。もちろんRPGの戦闘は「ドラクエ」のコマンド入力や「FF」の「ATB」ばかりではないですし、それらから派生したものである必要もなく、新しい形の戦闘があっても良いのです。ということで「クーデルカはこういうシステムを採ったんだな、仕方ない……」と自分をムリヤリ納得させたところで、どうにも受け入れ難いのはそのグラフィック。ビジュアルに徹底的にこだわった本作らしからぬ、バトル画面のショボさははっきり言って悶絶モノ。本作における初めての戦闘は、導入ムービーから引き続いて行われますが、「超美麗ムービー」と「超ショボいバトル」の対比が凄まじく、同じゲームかと己の目を疑うほどです。背景すらなく真っ黒です。

まあ、グラフィックがショボいだけならこれほどまでには叩かれません。問題はグラフィック以外にもあるのです。なんというか、時間の流れがタルいのです。ためしに、貴方が思いつくRPGの戦闘シーンを口で表現してみて下さい。「ピピッ、ザンッ、ビシビシッ!ズバッ、ドシュン」、それはそざかしアクティヴでスピーディなものではないでしょうか。「クーデルカ」は違います。パンッ、と銃を撃ちますと、敵はダメージを受けます。さあ、次は敵のターン。クネクネ〜、と移動してはまたウネウネ〜ホンニャラ〜、とこのマッタリ感は何でしょう。お互いに「マス目を移動しては行動」というターンを繰り返す、庭先の将棋のような感覚。わかりにくいかもしれませんが、プレイした人にはわかってもらえるのではないでしょうか。

爽快感、緊張感が完全に欠落した戦闘をさらにタルいものにしているのが、行動のたびに発生するローディング。プレステが必死に何かを処理しようとしているのがわかります。きっとメモリーがイッパイイッパイなのでしょう。そんなアップアップな状態で魔法なんか使おうものならアンタ、味方が消えます。自分が持っているはずの武器も消えます。敵の姿も見えなくなります。魔法のグラフィック処理だけで精一杯になってしまうのです。で、魔法の発動が終わるとあらためて敵が表示され、ダメージを受けてます。気付くと自分は武器を持っており、消えたはずの味方がいつの間にか姿を現します。結果、ただでさえ面白くない戦闘にやたらと時間がかかり、RPGにとってキモであるはずの戦闘が、エンカウントすること自体がウザくなるのです。これを致命的と言わずして何としましょう。

実は本作の戦闘って、攻撃を一回だけしたように見えても、裏側では命中率の計算とか細かい計算をいっぱいしてるんですって。なんでも命中率が高いほど攻撃回数が増えるんですって(見た目には反映されない)。で、その攻撃回数の合計から最終的なダメージが算出されて表示されるんですって。だから、画面上では単に一回ひっぱたいただけに見えてても、実は細かい計算をめまぐるしい速度で行っているんですよお客さんどうですか!そんなことも知らずに「タルい」とか叩かないでほしいね、な仕様なんですが、
なんのためにそんなことを?一回でいいじゃん。事前にわかっている命中率からヒットの有無を判定、ヒットしたら攻撃力から算出されるぶんダメージ与えりゃいいじゃん。なんでわざわざ複雑なことしてんの?

戦闘に関連して、武器に設定された耐久度も賛否両論。個人的にこれはシステムとしてはアリだと思うのですが、打撃型の武器は使っているうちに壊れます。どんなに強い武器も、レアな武器も、そのうち壊れてなくなります。「クーデルカ」にはRPGでおなじみの「お金で武器を買う」という概念がないので、基本的には拾得物を使っていくことになるのですが、壊れるとわかっていてはおいそれと使えません。壊れる直前で装備を換えればいいじゃん、とプレイしたこともないボンクラは思うでしょうが、耐久度は
プレイ中に確認できません(しかもランダム)。ひたすら不親切なのが「クーデルカ」なのだと理解しましょう。また、武器には系統(片手剣とか、斧とか)があり、特定の系統を使い込むうち、熟練度によってレベルが上がります。レベルが上がればその系統の武器を使った際、連続攻撃の発生確率が上がるのです。つまり単純に、一度に与えられるダメージが上がる可能性があるわけですが、レベルを上げるためにはそのぶん武器を使いまくらなければならず、結果的に多くの武器を壊すことになるでしょう。そうまでして上げなければならないほど、本作における熟練度は重要でしょうか?答えはノーです

すべてを理解したプレイヤーなら、結局初期装備の銃を使っていけばいいんだ、という究極の攻略法を身に着けるのです。銃は打撃武器ではないので、壊れることはありません。ここで重要となるのが、本作独自の成長システム。レベルアップの際には、どのパラメーターを成長させるか自分で決めることができます。強制的、かつ段階的な成長ではなく、いわばキャラクターを自分の意志でカスタマイズする感覚。これは嬉しいシステムなのですが、力や魔力を上げとけば他は不要になるゲームバランスはやや疑問。初期装備の銃をラスボス戦まで主力として使い続けることすら可能なのです。

銃で心もとなければ魔法も積極的に活用したいところですが、前述の通りのタルさからなかなかノリ気になれません。我慢して使えばそれなりに強いのですが、だからこそすべての味方が同じ魔法を使えるようになってしまうのは、キャラクターの個性を損なうことにもなります。せっかく味方3名にそれぞれ個性的な性格を与えているのですから、使える魔法も差別化すべきだったのでは?

もうひとつ、セーブポイントの配置にも疑問アリ。要所要所にいるボスはザコと比べてかなりの強敵であり、保険の意味でもどこかでセーブをしておきたいもの。確かに昨今のRPGはボスの直前にいちいちセーブポイントがあり、親切を通り越してヌルくなっているものも多いのですが、だからと言ってセーブポイントをボス戦の直後にしか置かないというのは賛否の分かれるところ。ボスに負けたらやり直し、我慢して乗り越えてきたタル〜いザコ戦の数々も水泡に帰すってもんです。これを「だからこそ緊張感のあるプレイができる」と肯定するマゾプレイヤーも少なからず存在しているようですが、本作に限っては筆者はボスの前に置くべきだと思います。だってやり直したいとはどうしても思えないんですもん。

戦闘については、菊田氏はまったくタッチしていないと語っているようです。しかも「エンカウントバトルは好きじゃないので、そうしたくはなかったのですが」とまで!やはりビジュアルやイベント、サウンドにかかりっきりになったため、バトルにまで手が回らなかったのでしょうか?自分がしっかり監修できればああはならなかったとのことですが、それはやはり監督としての責務が果たせなかった結果ですよね。一説には菊田氏が戦闘の練り直しと発売延期をSNK側に打診したものの、資金の面で折り合いが付かずに強行発売されたという事情もあったようです。あれ〜、「金は出すけど口は出さない」んじゃなかったのぉ〜、SNKサン?まあどんな事情があったにしても、発売した後に言ったことはすべて言い訳と受け取るのがユーザーというものです。菊田氏が関わっていようがいまいが、本作の戦闘が失敗作である事実は揺らぎません。そんな戦闘を発売前に見たファミ通の
浜村氏が、「FFっぽい」と語っていたのが印象的です。FFチームに土下座して詫びなさい

というか、なんでRPGにしたんだろう。「バイオっぽい」と言われたくなかったのかもしれませんが、いっそのことRPGではなくアドベンチャーにしてしまった方が、評価は上がったのではないでしょうか。ネット上のレビューの中には「戦闘さえなければ良作だったのに」と、とんでもないことを書くユーザーまで!
世界観とシナリオは秀逸な出来
タルい戦闘を乗り越えると、まるでご褒美のように与えられるイベントやムービー。そこで語られるストーリーはかなり練り込まれており、ゲームでは提示されない裏設定も含めて、ユーザーからは上々の評価を得ているようです。19世紀のウェールズという設定によって生じる独特の雰囲気から典型的なゴシックホラーものと思わせておきながら、その実は人間の内面にスポットを当てたモダン・ホラー。つまり目に見える「ホラーっぽいもの」は実はそれほど重要ではなく、真に読み取るべきは人間の方なのです。「クーデルカ」が描き出す人間の「内面」はかなりダークで、登場人物がそれぞれに重いものを背負っていたりします。彼らが、彼女たちがこんなことをしているのは何故なのか、この人がここまで残虐な行為をはたらくに至ったのはどうしてなのか、主軸となっているのはあくまで「人間」なのです。菊田氏いわく、「本当のテーマは"愛"なんです」とのことで、それを感じられるかどうかは受け手しだい。ラスボス戦の展開(倒したか、負けたか)によって2通り存在する結末も、ぜひ両方を見てほしいと思います。
これもひとつの終局。
↑バッドエンドも含めると、3通りの結末が存在する。
じゃあサウンドはどうなの?
そう言えば、菊田氏はもともとサウンドの人でした。では、サウンド畑の人がディレクターという立場から音を演出していくとどうなるのでしょうか?楽曲についてはやっぱり菊田氏の楽曲ということで、これまでの菊田サウンドファンも納得の出来であるようで、ゲームをプレイしていない菊田ファンからの評判は上々。音楽それぞれについてはウチのサイトでは「ゲームサントラレビュー」なんてものもやってますんで割愛させてもらいます。ここではゲームにおける音の演出に焦点を絞って語りましょう。さっそく筆者の印象から言うと、「クーデルカ」における音の演出は褒められたものではありません。以下、その根拠を「サントラレビュー」から転載しつつ、サントラを持っていない人向けに改変してお届けします。

あえて移動画面(探索中)は音楽を流さず、環境音(効果音)だけで勝負したのは好印象です。なかなかできることじゃありませんし、これって環境音をしっかり作り込んでいないとできないんですよね。ゴマカシがきかないですから。本作で言えば、地下では水滴の音がしていたり、水が流れる場所ではその音、壁に松明があればパチパチパチ……と効果音をしっかり鳴らしておくと。これにより、雰囲気の似た「バイオ」とも「パラサイトイヴ」とも違った空間が演出できていると思います。独特ですね。この演出はユーザーの多くにもおおむね好評のようです。

ただ、そのぶんイベントに集中することになる楽曲には注意を払わなければなりません。普段音楽が鳴っていないぶん、ここぞという音楽は目立つのです。目立たなければ、移動中の曲をなくした意味が根底から崩れてしまいます。では、このゲームはどうか?というと、目立ってません。ゲーム中での曲の音量設定が甘すぎます。本当の意味でBGM(バックグラウンドミュージック)に徹しており、プレイヤーの感情に働きかける効果はまるでないと言ってもいいでしょう。鳴ってても、鳴っていなくてもたいして影響がない。これではせっかくのイベント音楽も意味がありません。「音楽が主張しすぎず」とか、「全体が調和している」と褒める人もいるのですが、筆者に言わせればこれは調和なんてイイもんじゃなく、単に引っ込んでいるだけ、ですよ。

細かい(短い)楽曲が大半を占めるのも裏目に出たな、という感じがします。普段は曲が流れない、よってイベントの音楽は強烈な印象となって残り易い……はずが、あまりに細かい曲を断片的に流した結果、かえって曲数が増大しひとつひとつの印象がきわめて薄くなってしまっているのです。しかも特定の曲をのぞき、ひとつの曲はゲーム中でそう何度も流れない。ゲームをプレイしたうえでサントラを聴いても「これ、何の曲?」と思われる人は多いようですが、以上のような「ゲーム中での音量の低さ=聞こえない」「曲数の増加=印象に残っていない」が原因でしょう。もっとも菊田氏がそもそも「効果的な演出に長尺の音楽は必ずしも必要じゃない」という考えを持っておられる方のようですので、これはもう狙いなんだなと思うほかないんですが。

音の鳴るキッカケ、なくなるタイミングも曖昧で、映画的と賞賛することもできるのでしょうが、やっぱりゲームとしてはわかりにくい。イベントにおいてはなんとな〜く流れ始め、いつの間にかスーッとなくなっていることが多いのです。明確なセリフとか、そういったキッカケで曲が鳴り始めることはまれでした。そうなってくると、「ここ、ムリヤリ音楽流す必要あるのか?」と疑問に思うケースも出てくるわけです。

キッカケと言えばこんなことも。ゲーム中では「メロディディスク」というものを鳴らすイベントがあるのですが、そのメロディディスクをセットすると「ディスクがまわりメロディーが流れ出した」というメッセージは表示されるのですが、その際メロディーは流れてきません。画面が通常の移動画面に戻るとやっとメロディーが流れるのです。これはあまりにお粗末な「演出」ではないですか?やっぱりメッセージとともに流れ出すべきでしょう。サウンドを専門にやっていた人が「演出にこだわった」結果がこれでは……。楽曲単体の良し悪しはまったく別ですが、ただ、音楽をやっていた人が自ら全体の演出をした結果、映像面に意識がいきすぎたのか得意分野であるはずの「音」の演出がイマイチ、ということが言いたいわけで。音楽屋(御本人はそう思ってらっしゃらないとしても)ならではの音の演出に期待したんですが。

あと、上で「曲を鳴らさないためには環境音が重要」と書きました。そこにもひとつ難点があります。プログラム的なことなのでしょうが、たとえば水が流れている場所で、移動中にチョロチョロと音がしている、それはいいのです。が、ひとたびそこでイベントが始まるとなると、暗転とともに水の音が途切れる。イベントが開始されるとまた背景でチョロチョロと水の音がし始め、イベントが終わればまた途切れる。移動画面に戻るとまた鳴り始める……という具合に、環境音がブツ切れになるのが気になりました。これを繋げることができていたら、ゲーム全体の音の流れがずいぶんスッキリしたのになあ、と残念に思います。プレステの性能では難しいのかもしれませんけど、「バイオハザード」シリーズなんかはこれが気にならないように上手くやってたと思うので。
そろそろ総評を。
いいかげんにまとめますと、全体に非常にもったいないんです。世界観よし、映像よし、楽曲もよし、人物設定も練られている。これらがゲーム本編で合わさった時のバランスがあまりにもったいないのです。ここをもうちょっと詰めていたら……。時間的に許されなかったのかもしれませんが、非常に「惜しい」です。あとはすべてをブチ壊している戦闘を、もう一度検討できていたら(これが最も困難なところでしょうが)。ほんと、もっと調整に時間が取れたら、類稀なる名作に仕上がった可能性もあるんですよね。それでもゲーム中の時期に合わせて10月(28日)に発売したかったものを、2ヶ月は延期しているのです。菊田氏がスクウェアを退社してから「クーデルカ」のリリースまで2年とちょっと、この開発期間を長いと見るか早いと見るか。筆者はもっとじっくりやっても良かったんじゃないかと思います。まあ、お金を出してもらってるSNKの手前、あまり粘れなかったのでしょうが……。

ここまで読んだ方は本作を「ビジュアルだけのゲーム」と認識してしまうかもしれませんが、それは誤解です。人間の業というものを包み隠さずその内面に迫っていくシナリオの深さ、キャラクターの作り込み(外見ではなく内面の)、そしてイギリスを舞台とした独特のダークな雰囲気と舞台設定は、繰り返しますが秀逸な出来なのです。つまり、壮大な構想を練ったものの、時間的・人員的制約によってやりたいことのすべてをやり遂げることができなかった、不運なゲームなのです。その「やりたいこと」と「気合」はじゅうぶんすぎるほど伝わってきますし、筆者個人的には、そういった要素が他のもろもろの不満を帳消しにしてしまえるほど。菊田氏が目指した「しっかりと演出がされているゲーム」という点についてはかなり突き詰められており、「ゲーム」というよりは「作品」と呼びたいほど、作家性が強く現れています。個人的にはイベントだけでも価値アリの作品です。

残念なのはこれに関わったスタッフが、あまり本作を快く振り返ってはくれない点。Webを引っくり返せば、元関係者たちの溜め息を発掘することができるでしょう。製作のうえで様々な衝突があったようで、菊田氏自身も「スタッフに恵まれなかった」と公言しています。しかし、それに反して「クーデルカ」を愛するファンは多いのです。昨今のヌルいRPGに慣れた(もしくはそれしか知らない)人々には厳しいかもしれませんが、一度プレイしてみる価値はあると思います。陰惨なストーリーは確かに受け手を選びますが、面白半分の陰惨さではなく、必然的なものであって決して不快感はありません。RPGって、「悪者がいるから倒しに行く」だけじゃないんだということがわかります。むしろそういったお約束だらけのRPGに飽き飽きしている人、そんなアナタにこそプレイしてみてほしいのです。このレビューを読んだ後じゃ難しいかもしれませんが、戦闘以外はグッドですから(だからソレがダメなんだって)。

「クーデルカ」マスターアップ直後、菊田氏はサクノスを去っています。もしかすると結果やユーザーからの評価が「見えて」いたのではないでしょうか、後のことは知らんとばかりに速攻で去りました。その後は別の会社を興すこともありましたが、現在は再び作曲活動に専念しているようです。一方の「クーデルカ」は、関連作品とも言える「シャドウハーツ」へと発展し、ヒロインのクーデルカ自身も「シャドウハーツ」に登場しています。方向転換こそしているものの、市場は「クーデルカ」をそれなりに評価したことの証ではないでしょうか。惜しまれるのは、「クーデルカ」の出来によっては「シャドウハーツ」ではなく、「クーデルカ2」があったかもしれないということ。ホント、不幸な作品です。準備はしっかりしてたのにやり遂げられなかった。個人的には好きな作品なんですよ、作家性が強くて、随所にこだわりも見て取れる。それだけに「惜しかったなあ」という気持ちでいっぱいです。クソゲーと斬り捨てるつもりは毛頭ありません。
どんな人に向いたゲームなのか?
結局のところオマエは褒めてんのかけなしてんのか?と思われる読者の方もいらっしゃると思うのですが、どう見ても褒めてるでしょ?あ、戦闘?それはそれとして、総合的には褒めてます。会社の都合で作りたい作品がなかなか作れない昨今、このゲームが発売されたことは奇跡です。スクウェアという超大手の内部を見てきた菊田氏だからこそ作り得た、作家性の強いゲーム。そしてそれを通したSNK。スタッフには恵まれなかったかもしれませんが、環境は恵まれてた方だと筆者は思うんですよ。ということで、最後に「どんな人がプレイすべきか、しないべきか」を箇条書きにしてまとめておきます。

このゲームをプレイすべき人
・菊田裕樹氏を神と崇める熱狂的なファン(プレイしてない人はファンと認めません)
・ホラーな雰囲気、ドロドロした世界観が好きな人
・嫌悪感すら感じるようなグラフィックが好きな人
・気味の悪いクリーチャーが好きな人
・人間の内面をえぐるような、ダークでヘビーな物語の好きな人
・ミニスカ、パンチラ(しまくります)、ポニーテールが好きな人
・幼女に「死ね」と罵られたい変態さん
・のんびり屋さん

このゲームをプレイすべきではない人
・いわゆる「RPG」が好きな人
・サクサクとゲームをしたい人
・ファンシー、プリティー、メルヘンチックなものが好きな人
・ゴキブリとかが死ぬほど苦手な人(筆者は死にました)
・血が苦手な人
・暗所恐怖症の人(暗いです)
プレイしたくなったら……
街の中古屋さんに行けばたいへんお安く手に入れられると思います。4枚組パッケージですからすぐに見つかりますし。amazonでは中古がだいたい600円前後ってとこですかね。攻略本や資料満載のビジュアルガイドなんてものも出てますので、深部まで知りたい人はぜひ。サントラは廃盤が囁かれていますので、いまのうち。いつかは買おうと思っている人は、中古でもゲットしないとそのうちなくなります。現段階でもかなり入手困難と言われ始めているようですので。


岩原氏によるコミカライズ(全3巻)も興味があればチェックです。アスキーの小説版なんてのも。
1巻 2巻 3巻 小説版